校長室から

お知らせ ガイダンスの挨拶

偶然に出会った3人の日本の若者たち。館山、西表、Majuro(マーシャル)で同じ夢を追いかけていた。海藻牧場を作るんだ。海藻は人類を救う。20数年前に出会った若者たちを「探求」に突き動かしたのは「興味・関心」。好きや惹かれるを超えた、「衝動」を伴った「興味・関心」。彼らの追い求めていたものは、今、南カリフォルニア大学の一大プロジェクトとなって花開いた。「衝動」は残念ながらチョーク&トークの授業では生まれない。生まれrづらい。協働、コミュニティの中に生まれる。本校の学びの面白さははそこにある。新たな学びの世界にワクワクするだろう。
志望進路を掴み取るために費やせる時間はあまりにも少ない。卒業までに5000時間ほどしかない。市原中央高等学校では、駿台の現役講師を招聘して、校内で予備校の授業が受けられる環境を整えた。ぜひ活用してほしい

お祝い はじまり

令和4年度が始まった。昨日は40期生を迎える入学式を盛大に挙行した。コロナ禍もあって縮小の挙行であったが、それを思わせない厳かな式典が行えたと感謝している。満開の桜花がそれこそ華を添え、一層艶やかな華やかさを醸し出してくれていた。式を終えて部屋に帰ろうとすると、1人の保護者が声を掛けてくださった。目を見て彼女のお母様だとすぐに分かった。第一志望を貫き通して、見事勝ち取った「やり抜きました」と言った彼女の自己評価は正しかった。すごいな。今度は下のお子様が入学していただけたのだという。嬉しい限りである。
今日、駐車場では満開の桜の花のもと、数名の女子生徒がはしゃいでいた。後ろ姿の写真を撮影させてもらった。絵になていた。中の1人が「先生、先日、もっと満開の頃、委員会の人に撮影してもらったんです。モデル」と言ってワンショットをスマホで見せてくれた。なるほど、うまい。プロ顔負けである。何気ないこんなやりとりで始まった新しい年度、良い年度になりそうだ。

お知らせ 感染拡大防止の陥穽(Web講話)

感染拡大防止の陥穽

基本中の基本であると同時に、これ以外の効果的な対策はない。

三密を避ける  ・・・ 空気感染かも
マスク着用   ・・・ マスク越しに感染
手洗い、手指消毒の励行
黙食      ・・・ 対面でなくとも

県下の多くの高校で、臨時休校や学年、学級閉鎖、時差登校などなどを採らなければならないほどの中で、本校の生徒諸君はよくやってくれていると高く評価する。

一方で残念な情報も入ってくる。
急激な感染拡大の要因にもなっているのではないかと思っている人間の「油断」である。
今まで経験したこともない急激な感染拡大のスピード。
言うまでもなく、現在の感染の90%近くを占めているオミクロン株の特徴に原因がある。
しかし、第5波の時には聞くことのなかった「油断」が聞こえてくる。
一例を挙げてみることにしよう。
過日、某高等学校の教頭先生から電話が入り、コロナ罹患(陽性)生徒が出た。
行動をたどると、中学校時代の友人である本校在学中の生徒と共にカラオケに行って時を過ごしていたという。心配で電話したとのことであった。
この事例、あまりにも軽く見ていると思いませんか、我々の置かれている窮状を。
我々市原中央高等学校が置かれている、千葉県民が置かれている、大きくは人類が置かれている状況を、あまりにも軽く見ていると思いませんか?
おそらくは、第5波のもたらした閉塞からの軽率な解放感、馴れからくる自分は大丈夫だという過度な自信、合わせて自分だけよければという醜いエゴなど、人のもつ脆弱な心が、先のオミクロン株の特徴に拍車をかけていないだろうかと思うのです。
自由に過ごすことを閉ざせとは言いません。いま述べたような人のもつ弱みを少し自制する気持ちを持ってもらいたい。

以前にもお願いしました
生徒諸君、どうか助けてください
この窮状から君たちを含む皆を救うのは君たちしかいません
自分を周りの人を、大切な人々を、愛するものを、救うのは君たちの力しかないのです

右 去年今年・・・

校長講話

前回の校長講話で「探究する心」という話をしたのを覚えているでしょうか。1年のうちに出会った3人の若者(海藻にエネルギーの将来を求める学生たち)を例に取り、興味・関心があることを探究に結びつけるには、「強い衝撃」が必要だと言った話です。漫然と生きていたのでは、それは得られない。常にその衝撃が、いつ訪れようとも感受できる研ぎ澄まされた感性を持ち続けるくらいの緊張が必要だと言った内容でした。
 今日は、生徒会の皆さんからいただいたお題が「3年生への激励の言葉」(=1・2年生への新たな年に向かう決意に結びつく言葉)ですから、見つかった興味・関心に基づく「探究心」を継続するための姿勢というか、生き方の話をしようと思っています。卒業する生徒たちが部屋にやってきて「何か一言をください」と言われた時、私はお気に入りの別役実の名言「人間は、何か一生懸命やり通さなくちゃいけないのさ」を書くことにしています。それに通じるような話です。
去年今年貫く棒のごときもの
これは明治から昭和にかけて活躍した俳人、高浜虚子(たかはま きょし)の句です。この句と先に述べた「(探究の)継続」との関係を語るには、少し彼の文学人生に触れておかなければなりません。彼の文学の道は平坦なものではありませんでした。四国松山から俳句の師「正岡子規」を慕って上京した虚子は、同郷の川東壁梧桐らと共に俳句革新運動に身を投じていきます。正岡子規の没後の俳壇牽引継承者への誘いを断った虚子は、正岡子規の死後、碧梧桐と袂を分かち、しばらく小説の世界に入っていくのですが、自由律の俳句を良しとして進んでいく碧梧桐と日本の俳壇を憂い、再び俳句を読むようになります。「春風や闘志抱きて丘に立つ」はその頃の虚子の心境を詠んだ句です。強い衝撃を受けて「探究」に進む瞬間です。それは「闘志」ほどの強さを持ったものでした。こうした強い衝撃により、(闘志を持って)一生懸命やり通す(継続する)ことを貫いてきた人、虚子の晩年(76歳)の時の句ですから、意味としては
「何の変哲もない棒のようなもの、それが去年と今年を貫いている」
ということでおおよその間違いはないと考えます。碧梧桐の自由律俳句を一線を画し、伝統的な俳句を推し進め牽引してきた俳壇に、前衛俳句という新しい波が押し寄せてきたころでもありました。私はこの句に詠まれている「棒」は、自分の中にある「信念」「闘志」のようなものだと考えて良いと思っています。「去年から今年へと年は変わり、周囲の状況がどんなに変わろうとも、自分の中には変わらない信念が貫かれている」という意味、来し方を振り返り我が人生に悔いなしという思いがこの句には込められていると解釈しています。お前には貫き通せる信念はあるのかという問いを突きつけ問いかけてくれる句であます。
 皆さんには「これだけは譲れない」といった信念のようなものはあるでしょうか?本校の生活の中で培うことはできたでしょうか(できているでしょうか)。本校の先生方はそれぞれにアプローチの仕方は違いますが、みんなそうした力(生きる力)を身につけてもらうために全力で臨んでいます。今眼前にその存在を求めるとするなら、入試に対する姿勢にそれが現れているはずです。君たちを襲う「不安」や「弱気」「妥協」と言った要因を跳ね除ける力を見出してほしいと思います。必ずあるはずですし、持っているはずです。虚子のいう「闘志」に値するものを持つ自分を信じてください。
 今まさにそれを発揮する時です。自分の道の扉を自分でしっかりと開いてください。
激励の言葉とします。

家庭科・調理 最後かぁ

これも思い出づくりなんです

ここのところ食堂が混んでいると聞いた。週はじめから何度か足を運んでみたが、本当に混んでいる。行列ができている日もあった。賄いのカウンターは、普通は食べ物を受け取る場所。そこを駅前の立ち食いそばよろしく、立ち食いカウンターにしている。最初は分からなかったので、覗き込むと「いやダァ、先生!」と女子に叱られてしまった。失礼しました。しかしこの光景、ぜひ写真に収めてご披露したいと思い、一・二枚失礼してシャッターを切った。よく話をする男子生徒が「校長先生、取材ですか?」「すごいね。この混み具合」「よくみてください。3年生が多いでしょ。これも思い出作りなんです。もうこの食堂のラーメン、食べられないから」とつゆまで飲み干した器を見せてくれた。『そうか、最後かぁ』と思うと、少し寂しくなった。3年生の実質登校は、あと・・・。