2020年1月の記事一覧

お知らせ 放送による校長講話(地図とコンパス)

1月31日(金) ほぼ毎日・校長 Vol.155 3年生の先輩から窺える本校


 インフルエンザの流行が真っ先に影響するのは集団行動。この日予定されていた体育館での校長講話も放送によるものに変更した。相手の顔をみながら話をするのでなく、マイクに向かって・・・は難しい。ラジオのパーソナリティや録音は、やはり慣れなんだろうなと思う。講和の内容は、出会ってから大切にしている評論家の「今必要なのは『地図』ではなく『コンパス』である」という話。
 もちろん教え育むことも大切である。しかし、本当にその生徒が「学ぶ」ためには、興味を抱かせることが大切になってくる。そこがなかなか難しい。興味を抱くこと、自然に湧き出てくるそのチャンスを与える工夫。実は難しいようだが、それほど「困難」ではない。「協働」の中にヒントがあって、何かの共通の目的に向かって、協働で動き始めた時、人は「仲間」の中にメンターやロールモデルを見つけ出して、自己変容を始めるのである。そういうメンターやロールモデルはある程度豊かで深い「もの」を持っていないと、スパイラル的に展開する自己変容は進まない。こうした学びに「地図」は必要ない。自分で進むための「コンパス」が必要である。どうやって学ぶか。メンターやロールモデルをどう与え、活用する機会を作るか。それが大切になってくる。これからの学校はそうなるだろう。しかし、そんな上質なメンターやロールモデルの要素を持った者が集う学校はそうはない。市原中央高等学校にはそれがある。
 この春に卒業する3年生の紹介をしよう。
 「城」が大好きで、語り始めると止まらない。旅先で城や城跡に触れる機会があると彼の顔が浮かぶほど興味を持って夢中になっている。・・・Vol.128の生徒
 絵を描いている時間が一番自分らしい。だから絵が好きだ。好きなことは一生大切に取っておきたい。続けていきたい。でも仕事にする好きとは違うと語る生徒。・・・Vol.146の生徒
 声楽の姿をみてもらったけれど、本当の自分はこれ。これしかないから夢中でまっしぐらに進んでいる。「革命」をピアノで聞かせてくれた生徒・・・Vol.153の生徒
 市原中央高等学校は、単なるEducationの場ではない、Studyingだけの場ではない。Learningの扉をいくつも提供する学校だ。

 そんな話をした。いい学校です、市原中央高等学校。

 *放送の校長講話に協力をしてくれた放送委員会の諸君、ありがとうございました。 

音楽 こんな瞬間(とき)を独り占め

1月29日(水) ほぼ毎日・校長 Vol.154 意思を離れ生き物と化した指の奏でる音

お昼少し前、「先生、お時間大丈夫ですか?」と言って、女子生徒(Vol,153)が部屋を訪ねてくれた。今日は肩まである髪を、ポニーテールに結んでいる。いつも練習している第二音楽室のグラウンドピアノの前に立った姿は、女子の姿を形容するにはそぐわない言葉かもしれないが、「荘厳さ」が感じられた。それだけ、鍵盤に向かう姿勢が凛とした真剣なものであった。生徒は椅子に浅く腰掛け、少し斜め上を見上げるようにして、大きく息を吸った。鍵盤に指を当てがい、最初の音が出るまでのほんの少しの間、時が止まった。私の、緊張に耐えきれず、口が乾くような気がして、つばを飲み込んだ音が聞こえるほどの静寂。次の瞬間、最初の音が出たあとは、生徒の指が、まるで本人の意思を離れた、一個の生き物のように鍵盤の上を目まぐるしく動いていく。ショパンの「革命エチュード」。難曲として有名な曲。その世界に疎い私ですら、それとすぐわかった。
 見事だった。時にはシーケンスに、時にはランダムに動く生き物と化した指は鍵盤を通じ、ハンマーを動かし、弦を叩く。奏でられる音は、こうした構造を説明する言葉で表現するには失礼なぐらい「いのち」を持って伝わってきた。大きく上半身を動かしながら、波打つように揺れる彼女の身体はピアノと一体化していく。華奢な小さな体が、何倍にも大きく、偉大に見えた。彼女そのものが部屋全体に満たされた「おと」になっていく。琴線が震えた、涙腺が刺激された。「すごい」かつて勤務した高校で、吹奏楽部の生徒が全国大会に臨む楽曲を、私に聞いてもらいたいと言って聞かせてくれた時と同じだ。
 辛い時もあったろう、もう投げ出したいと思う時もあったろう。喜びも苦しみも、共に感じてきた白と黒の配列。生徒がそれに向かう時、裏切ることなく「自身」を表現してくれた。この時のこの生徒の心情を確認することはもちろんなかったが、素晴らしい感動の「共鳴」を私に与えてくれたことは間違いなかった。

 ありがとう。こんな素晴らしい瞬間(とき)を。独り占めさせていただきました。すごい学校です、市原中央高等学校。

音楽 この瞳、この笑顔どこかで見た気がする

1月24日(金) ほぼ毎日・校長Vol.153 2週間ぶりの投稿

 3年生が自宅学習に入ってから部屋を訪れる生徒がめっきり減った。寂しい。と言うより部屋のドアを閉めていることが多くなり、繋がりを閉ざしていたのは私の方なのかもしれない。年度末になるとなんだか忙しい、慌ただしい。
 今日も部屋に籠もってPCと向き合っている。自分らしくないなと思いながらも、目の前にある山積みの仕事と格闘していた。ドアがノックされた気がした。風の悪戯かと思えるほどの微かなノック。「はい」と返事をしてドアを開けてみると、見知った3年生の女子が立っている。音楽コースの生徒である。みんなが進路を決める中、自分はまだこれから挑戦を・・・。少し不安の影を宿した面持ちで「頑張っているんです」を伝えにきてくれたのである。音楽の道へ進む彼女は、今が山場なのだろう。「それでね先生、試験で弾く楽曲を聞いていただきたくて」と嬉しいお願いをしてくれた。ぜひ一度聴いて欲しいと語ってくれた。「いつが空いていますか?」「そうだね」今から楽しみである。
 部屋を出ていくとき、「受験で卒業式に出られないかもしれない」と少し寂しそうに語った。「そう、そうなったら担任の先生と一緒に、この校長室で卒業式をやろう」
 そうだ、あの瞳、あの笑顔。かつての教子の吹奏楽の部長、かつての教子の書道部のパフォーマンス部長。彼女たちの輝く瞳、柔らかい優しい笑顔と同じだ。何かに夢中になって、真剣に取り組んでいる若者の輝きは美しい。うらやましくなった。市原中央高等学校、いいね。

3ツ星 芸術は、哲学だ、人生だ!

1月10日(金) ほぼ毎日・校長 Vol.152 芸術コースの展示会

 市原地区の高校の芸術作品展示会が行われていた。ぜひ顔を出しておきたかった。そんな思いにさせたのは、3年生のサカナさんVOL146で紹介した彼女の存在である。あそこまで自分自身を引き込んでいる絵画。そんな彼女の後輩たちが集っている。3年生がいなくなった中で、1・2年生の活躍はどうだろう。関心があった。
 平日の午前中、訪れるお客さんは少ない。開場してまもない催し物フロアに椅子を並べて、本校の芸術コースの生徒が先生方からレクチャーを受けている。「冬休みの宿題、みんなで批評し高め合っているんです。」と一人の先生が説明してくれた。講師役の二人の先生が批評、感想を1枚、1枚のデッサンに述べていく。どれもすごい。「いいな、うちの子たち」と思いながら、一緒に聞いていた。
 これはね、製作途中に陥ること。必ずと言っていいほど。見事に陥ったね。
 そんな時は、距離を置いて観ること。
 近づいたり遠のいたりしてみつめてみること。
 技術、テクニックだけでなく人生を語っている。こうした視点、視野を持つチャンスを自分でつかんでいる。すごいことだと思う。絵ができてからテーマやキャプションを考える。テーマやキャプションがあってから絵をものす。どちらでもそれはいい。写真を撮影するのだが、撮影に入る前にテーマを考える。シャッターを切る瞬間には、キャプションが出来上がっている。そんな撮影の仕方をすることもあれば、とりあえず感動や流れに従ってバシャパシャとシャッターを切る。出来上がった作品をみながら、キャプションを考える。
 何を語りたかったのか自問してみること。やはり人生なのだ。

 芸術は面白い。作品と、講評と、生徒たちの表情をみながら、心からいいなと思った。

お祝い 本校生徒の中に息づく日本

1月8日(水) ほぼ毎日・校長 Vol.151 嬉しかったなぁ

新年・校長講話
「あけましておめでとうございます。良い年を迎えましたか?」
「はい、ありがとうございます。先生はいかがですか」
「はい、良い年を迎えました。ありがとう」

 今年になって初めてあった本校生徒との新年の挨拶である。何気ない挨拶なのだが、私はこの生徒の生活環境や、大きく言えば「育ち」に感心した。それは、このオリンピックイヤーと呼ばれる2020年にあたって、ちょっと考えてみたいことにつながっている。
 私は2度目の東京オリンピックを迎える。小学生の頃、ワクワクドキドキしながら、白黒のテレビの前に家族で集った。祖母も父母も兄弟も、テレビのない親戚も。近所の家はカラーテレビだった記憶がある。ちょっと悔しかった。粒子の荒い映像でブラウン管に映る選手たちの勝敗や記録に一喜一憂した。会場の臨場感をそのまま茶の間に持ち込んで楽しんだ。時は流れ、そこに集った者たちの多くは、鬼籍に名を連ねるものとなってしまった。記憶の片隅に「あの日ローマで眺めた月が、今日は・・オリンピックの顔と顔」三波春夫の東京五輪音頭のリズムと朧げな歌詞が残っている。
 今回の「オリンピック2020」は、ガンダムが衛星で打ち上げられ、地球・東京に向かって、開催期間中にずっと応援メッセージを送るそうだ。時代が違う。ソサエティ5.0(5G)の時代が、いよいよ本格的に始まる。そんな急速な時代の流れの中で、狂言師・野村萬斎氏は開会式で日本の伝統を踏まえた催しを企画しているらしい。日本の伝統と新しい技術革新のコラボレーションである。楽しみである。
 「らしさ」の追求である。忙しく移り変わる時代。そんな中にあってこそ「らしさ」が求め、問われるのである。どうすれば我々日本人が持っている「らしさ」(オリジナリティ)が伝えられるか、腐心しているのである。
 みんなと一緒がいい。違うことは勇気のいること。大勢の中の一人であることが安心な時代ではないのである。自分「らしさ」を考え、「自分って何」「違っていいんだ」その中で、率先垂範や、同僚支援、方向性指示の力を求めつづけるスタートの年にしていただきたいと思う。
 先ほど紹介した本校生徒との新年の挨拶。この中には、大切な日本の心がある。そんな風に思う。まだ始まって間もいない1年に対し、「良いお年をお迎えになりましたか?」いかにもおかしな問いかけであるけれども、「ありがとうございます。そちら様は?」と返す。言葉による呪言(寿ぎ・ことほぎ)、相手に「幸」を贈る。贈られた者は、感謝の気持ちを込めて相手に「幸」を贈る。互いを尊重する「日本の文化(らしさ)」なのである。前回のオリンピックを一緒に楽しんだ、鬼籍に名を連ねるものたちの時代には、自然に存在した「日本文化・らしさ」である。
 これを意図せず本校の生徒から感じ取ることができた。生徒の中に息づいていることに喜びを感じた。こんな嬉しいことはない。こんな頼もしいことはない。生徒のおかげで、私の一年は「いい一年」になる。
 いま私は、全校生徒と本校の全職員、この文章を読んでくださっている関係諸氏に同じ「幸」を与えたい。寿ぎを
  あなたたちにとってこの一年は最良の年です。いい年を迎えました。
  あけましておめでとうございます。
  今年も、市原中央高等学校をよろしくお願いいたします。