校長室から

まる 親睦と友情、つながり、そして奉仕へ

6月12日(水) ほぼ毎日校長 Vol.45 市原ロータリークラブの方々と

左から   平野 様 ・ 野口 様 ・ 日髙 ・ 篠田 様(新会長)

市原ロータリークラブの方々が、わざわざご挨拶に来てくださった。本校のインターアクトの生徒諸君が深い繋がりを持せていただいており、様々な活動への参加や支援を頂戴している。「ロータリークラブ」名前はよく存じ上げているが、私にとって決して身近な存在ではなかっった。「奉仕活動」「地域貢献」という用語がすぐに連想はされるが、恥ずかしながら実感として感じることは少なかった。新会長の篠田さんは、「会長を仰せつかるにあたり、『市原ロータリークラブかくあるべし』をまとめて見ました」といってA4版4枚にも及ぶレポートをご持参くださった。長年継続してきたマレーシアの交換留学生の話、9月に予定されている音楽鑑賞会の話などなど、ぜひ本校のインターアクトの皆さんにお手伝いいただきたいというお話をいただいた。ロータリーが「親睦と友情」を起首とし、やがて「つながりを築く」活動に、そして「奉仕」へと進んだ流れを実際に語っていただいているようなお話をいただいた。

本校のインターアクト、30名を超える生徒が熱心に活動していると聞いている。県下一位ではないのかな。数といい、質といい。市原中央高等学校、いいね!

合格 そうか、ここに来ればよかった

6月11日(火) ほぼ毎日校長 Vol.44 生徒会室いつも満員御礼

 「令月の和楽」今年の文化祭のポスターが貼り出された。パープルの地に淡いピンク。令月(美しい月)に手をかざす少女。紫の高貴な品格のある色の中で、髪を風になびかせている。まさに「薫る(カヲ・ル)」なのである。つややかな美しさ、このポスターを手がけた生徒は誰だろう。13枚の候補の中から選出された一枚。もちろん「令和」の「風和らぐ」を視覚的に意識した作品なのだろう。見るものにその意図を感じさせる。かつて読んだ書物の中で、確か和歌の解説であったと思う。「きよし」と「さやけし」は違う。物その物がもつ「きよし」によって対する者の心が浄化される状態それが「さやけし」と書いてあった記憶が蘇る。このポスター「見る者の心を洗うほど」なのである。

 ぼんやりとポスターを眺めていると「こんにちは」と明るく挨拶をしてドアの向こうに隠れていく影。生徒会の生徒である。文化祭が近いのでコトコト忙しそうにしている。『お邪魔かな』と思いながら中を覗くと、案の定、みんなが何かに取り組んでいる。「何しているの?(あーそぼ!)」と声をかけると、PCの方を向いたまま、「はい、クラスの出し物の説明文の活字化です。」と答えてはくれるけれど、応えてくれない(あーとで)なのである。察してくれたのであろう、生徒会顧問の先生が「◯◯さん、校長先生のお相手」と一人、遊び相手をあてがってくれた。嫌な顔もせず「はーい」。ところがこうして改まると、何を話していいかわからない。「えっ、まぁ」などと柄にもなくドギマギしていると、「校長先生、私、生物で97点とったんです。もう、最高」と話題を提供してくれた。それを機会に、そこここに座っている生徒が代わる代わる相手をしてくれる。あっと言う間に時がすぎていった。出来上がった学校案内を見ながら、「素敵なパンフ。表紙はタマちゃん。友達なんです」「アレェ、校長挨拶なんて書いてるけど、これ校長先生ですか?」「えっ、違う」と写真と私をしきりに見比べている。写真が悪いかな?写真変えるかな?

生徒会室、ここに来ると市原中央高校が、グッと凝縮されているようだ。そうか「校長は寂しい( ;  ; )」時にはここにくればいいんだ。生徒会の諸君、忙しい中お付き合いありがとうございました。

話題の写真→ 

鉛筆 アクティブなチョーク&トーク

6月10日(月) ほぼ毎日校長 Vol.43 ちょっと授業を拝見に行ってみた

授業の観察は改めてさせていただくことにした。授業の開始から少なくとも2/3くらいの時間は拝見しないと、生徒の取り組みは見えないだろうから。考査の終わった次の週の月曜日『多くの授業はテスト返却から始まっているだろう』返却がどんな風に指導がされ、生徒たちの取り組みはどうなんだろうと興味はあるが、また次の機会にしようと思ったのである。だから今日は、授業の覗き見。

音楽(声楽):いつも校長室で聞いている綺麗な発声と歌声。アリアナ・グランデという歌手をご存知だろうか。少しハスキーな歌声なのに、とんでもない高音を発声することができる。もちろん彼女ほどでは無いが、うちの生徒たちの歌声は美しい。どれぐらいの音域が出ているのかわからないが、とても域が広い。発声の練習をしながら、音取りがうまくできなくなりそうな一歩手前で、ピアノの鍵盤がポンと鳴る。導かれるように声がその音と一緒になる。『プロの指導だなぁ』このタイミングで指導ができると、他の教科でもきっと「わかる」授業ができるのだろうな。

数学:テスト返しの真っ最中であった。「え〜、追試は・・・」先生が日程を知らせると、クラス中がざわついた、ため息が漏れた。中には、頭を抱え込む者もいる。すかさず「でもな、君たちはすごいぞ。この時期の私の授業では普通、◯◯人ぐらいいていいのだが、◯人しかいない。これは見上げたものだ。見込みがある」と褒める。ダメ出しではなく、いいところを褒めて伸ばそうとする。基本中の基本なのだが、なかなかできることではない。

日本史:「最後の遣隋使は?」かん高く良く響く声で質問が出る。何人かの生徒が声を揃えるように「犬神御田鍬!」「すごいね珍しい名前だから覚えていたかな?初めての遣唐使でもあるんだね。じゃあ、その遣唐使が終わったのは?関わっている重要人物」また「菅原道真!」何人もの生徒が答えている。質問と答えというより会話なのである。生徒も教員も楽しんでいる。アクティブなのである。「じゃぁ・・・」連想ゲームのように続いていく。「白紙(はくし・894年)に戻そう遣唐使」

中学3年生「6」、高校1年生「25.4」。単位は%である。何の?「学校の授業以外に、塾や家庭で全く勉強しない生徒の%である。どうすればいい?「環境を作ってあげることですよ」元都立三田高等学校の校長先生は、さらりと答えた。

花丸 先生、なんだか嬉しそう!

6月6日(木) ほぼ毎日校長 Vol.42 確かに一番はしゃいでいるのは私

チャイムがなり終わった。しばらくするとガヤガヤ、キャァキャアと賑やかになってくる。机を運ぶ音が聞こえる。教員経験のある方なら、これだけでリアルに映像まで浮かんでくることだろう。それだけでなく今まで淀んでいた空気が、一気に爽やかに動き始めるのを感じているに違いない。考査が終わった。この音や生徒たちの会話を聞くだけで、心がウキウキしてくる。「先生、なんだか嬉しそう」清掃担当の生徒が笑顔で語りかけてきた。「嬉しいんだよぉ。先生はこの時を待ったいたんだ」と返事をすると「校長先生は寂しい(≧∇≦)ですね」(Vol38)とブログの記事を話題にしてくれる。「本当に嬉しそう」全身に嬉しさが現れていたのだろうか。話しかける生徒それぞれが、「あーとで」ではなく、ちゃんと相手をしてくれる。「あぁ、あの問題配点が10点だったらまだ救われる。15点だったら地獄」とテスト結果を嘆きながら廊下を歩いていた女子生徒に、「テストが終わった喜びを全身で表現してみよう」と声をかけると、瞬時に明るく応じてくれた。調子に乗って、「さぁみんなも」清掃担当の3人組も全身で喜び。玄関掃除の男子生徒、「僕らはいいですよ」と言いながら「5・4・3・2・1」とカウントダウンすると「ワォ」と付き合ってくれた。一番はしゃいでいたのは、やはり私なのである。みんな、お付き合いありがとうございました。「校長室の清掃担当の男子が来ないなぁ」と独り言を呟いていると「先生、あの二人は提出期限今日までのワークブック回収係になっていて、今日はこれないと思います」同じクラスの女子(彼女は確か吹奏楽部の部長さん)が事情を説明してくれた。気配り段取りができる生徒っていいな。自慢です。

梅雨が近く、曇り空が多くなるかもしれない。でもここ市原中央高等学校の校内は、ぴーかんの晴れなのである。

苦笑い 口から耳へこぼれゆくもの

6月2日(日) ほぼ毎日校長 Vol.41 不断の努力と学校力(市原中央新聞から)

着任早々挨拶文を求められるのは校長の常である。生徒会の挨拶文、新聞委員会が出しているのだろう「市原中央新聞」の巻頭言。この号は、卒業生の進路に係るコメント、後輩たちへのエール特集である。その新聞に「校長あいさつ」として書いた文章がこれ。教員との個人面談の中で、この文章を話題にしてくださった先生がいた。自分でも存在を忘れていたが、前期の第一回考査が終わり、夏を迎えるこの時期に、在校生諸君へのエールとして記しておこうと思った。

  誰の言葉だっただろうか、「[『ことば』は口から耳へこぼれゆく」もの。刹那的で命短いものだが、人の心や万物を動かす大きな力を持っている。古人はその力を言霊(ことだま)と呼んだ。ここに記された卒業生たちの「ことば」は尊く、力強い。不断の努力に裏打ちされた大きな力を持っている。魂(霊)を持っている。「筆舌に尽くしがたい」というが、彼らとてもそうであろう。「こんなに努力しました」と自慢げに成果をひけらかしてはいないが、その筆に滲むような努力の軌跡を追うことができる。伸び悩み、苦しむことの連続であったろう。やや先に光が見えたかと思うと、その光はたちまちに霧の中に消えてしまう。目指す方向性も見失い、「もうだめだ」という絶望感だけが支配する時期もあったに違いない。言葉でなんか語ることはできない心境、それが行間から滲み出てくる。その苦しみという大きな壁を穿った力、打ち勝った力の存在を共有させる、姿なき表現を聴くことができる。一つ事を貫き、成し遂げた者たちの、尊厳に支えられた発語である。いま私が語っている感覚が実感できない、享受できない者がいるとすると、やや危うい。目標に向かって真摯に臨む姿勢に、いまある自分の姿に内省の目を向けてみる必要があるかもしれない。
 彼らの目標達成に向かう努力を継続させ、栄冠を勝ち取らせたものは何だろう。もちろん本人の強い意志が一番であることは間違いない。ここで問う「何」は、その意志を、そのモチベーションを保ち続けさせたものは?という問いかけである。多くの要因が考えられるだろうが、もう一度彼らの筆を辿ってみると見えてくる。それは「学校力」である。受験は団体戦ということをよく耳にするが、その団体戦を勝ち抜く力を高めることができるかどうかは、この「学校力」にかかっていると思っている。その学校の空気が、水が、そこに集う者たちの心を刺激し、より高みに向かわせる。一人ひとりの姿勢、奥歯を噛みしめる力、紙面に鉛筆を走らせる音までもが伝播し、刺激する。和紙に落としたインクが滲むように、静かにそして確かに。やがてそれは総和として、学校全体の雰囲気として成立する。学校力の発動である。
 ここには、他にはない素晴らしい学校力がある。寄稿された卒業生の一言一言と、輝かしい実績はその証である。在校生、新入生の諸君にとっては、何物にも代え難い応援メッセージ、熱いエールになっている。険しく辛い道程ではあるが、歩を進めることを止めないで欲しい。君たちの頭上にも栄冠が輝くことを祈念している。

驚く・ビックリ 悔しかったに違いない

6月1日(土) ほぼ毎日校長 Vol.40 よく頑張りました

午前中に保護者会の集まりがあった。ありがたいことに「ほぼ毎日校長」を読んでくださっている方が大勢いらっしゃる。「先生、真紅の優勝旗から・・・」「体調でも・・・」前任校でも3日休むと、副会長から電話があった。「はい、今校長は一番さびしい時を過ごしています(Vol38)」自宅の近所から本校に通っている生徒のおじいちゃんが、楽しみにしていると声をかけてくださることもある。とにかくありがたいと思う。頑張ります「ほぼ毎日・・・」

というわけで、「今週の土曜日試合があります」と誘ってくれたバスケットボール部の午前中の試合の応援には伺えなかった。午後一番に駆けつけると、午前中に試合のあった女子が私を見つけ「先生!ありがとうございます。1試合目勝ちました。これから男子、そして女子・・・」歓迎の言葉をかけてくれた。試験前で忙しいだろうに、若い先生が数名応援に来てくれている。自分のクラスの生徒が出ているのだという。生徒の思いに応えてくださっている姿に感謝である。結果は男子も女子も残念な結果に終わってしまったが、いい瞬間(とき)を共有させてもらった。自分たちの力が存分に発揮できなかったもどかしさが残ったかも知れない。でも流した汗は正直である。ともに過ごした日々に培われた絆は何にも換えがたいものである。しっかり見せていただきました。涙する君たち(女子)の丸めた背中を見て、私は、だらしなくも声がかけられなかった。悔しかったろう。でもこの時を悔しいと思えるだけ、君たちの日々は懸命だったのだ。そんな風に歩みを確認してみるのもいい。よく頑張りました。

終了間際に、足を捻ってしまったセンターさん、大事ないですか?

視聴覚 ちょっと楽しみな活動

5月31日(金) ほぼ毎日校長 Vol.39 ドキュメント番組を作る

演劇を志す若者には独特の雰囲気がある。うまく表現できないが、どこか浮世離れしたような、俗人にはない個性が伺えたりする。私の中での日常の彼らは大抵、ぼんやりとしていることが多い。科学に思いふけるばかりに道を踏み外して、溝に落ちてしまったり、壁にぶつかってしまったり。日常に戻るために「叩き役」を連れて歩く天空の城ラピュータの住民(ガリヴァ旅行記)を思わせる。私の印象なので失礼があってはいけないが、多くの演劇に関わる教え子たちがそうであったように思う。彼らのすごいところは、舞台に立って「役」を演じると、豹変してものすごいエネルギーを発するところである。舞台で演ずる役者だけでなく、裏方の者たちもそうである。芸術家やアスリートたち、一つことを極めたものたちも同じような空気を持っている。全ての緊張から自分を解き放った時を過ごしながら、舞台やトラックに立つ、キャンパスに向かう「一瞬」に爆発的な力を発揮する。この日部屋を訪れてくれた3人の放送委員にも同じものを感じた。「僕は、私は、こういうものを音で表現したいのです」と熱く語る。その表情や仕草、目の輝きに、ハイレベルな芸術家の血を見たような気がした。大人の尺度では「それ、相当無理があるよ」「現実を見つめて、諦めるなら早いほうがいい」と言ってしまいそうなものであっても、彼らの語りに裏打ちされると、「いいねぇ、面白いかもしれない」と逆に価値観を改めさせられる。NHKの放送コンテストにチャレンジするそうだ。ぜひ頑張ってほしい。

本校の生徒たちは、想像していたよりワンランク上にいるのかも知れない。いいね了解

困る 校長先生は寂しい(>_<)

5月30日(木) ほぼ毎日校長 Vol.38 あーとで

写真は放課後の職員室前廊下。試験前に限らないが、大勢の生徒たちの学びの壁になっている。廊下の壁際にズラっと長机が並べられて、質問のある人は目的の先生を呼んで、指導を受ける。本校の日常的な光景である。試験前はいつも満員で、空気もピリピリしている。いつもも見慣れた顔がいる。「あっ、先生こんにちは」と言ってすぐに机に向かう。『おーい、それだけか?』いつもなら、ねぇ、ねぇ先生、と話しかけてくれるのに、ここのところ冷たい。一様に冷たい。「あーとで」なのである。幼い頃、友人の家を訪ねて「◯◯ちゃん、あーそーぼ」と声をかけると、「はーい、今行くヨォ」と声を返してくれるのに、その日に限って「あーとで」。なんとも言えない寂しさを感じた思い出が蘇ってくる。校長先生は、さびしいのである。早く考査が終わらないかな。

背中からも緊張を感じさせる本校生徒の勉強する姿勢、いいね。

体育・スポーツ 深紅の優勝旗が校長室に来た?

5月27日(月) ほぼ毎日校長 Vol.37 応援に行けなかった

  長い電話の対応をしていると、ドアをノックして野球部のいつもの2人が入ってきた。もちろん内側からの「どうぞ」に応えての入室であるが、まだ左手に受話器のある私の姿を見て、「失礼しました」と出て行こうとする。急ぎ受話器をおいて、入ることを促した。手には「優勝旗」が持たれている。「報告がてらきました。東海大望洋に勝ち、優勝しました。ここに置かせていただいていいですか」その報告を聴きながら、副キャプテンの右手に、私の視線は注がれていた。薬指に包帯が巻かれている。「どうした?」という問いに、試合中に打球が当たって骨折したと説明しながら、うつむいている。「夏の大会前に、最後の大山場の前に・・・」その言葉に、大きな大きな体が、小さくなったように見えた。言ってはならない言葉だったかもしれない。自責を受け入れるように「他のことではなく、野球でなら納得もある」とわけの分からぬ繕いをした。うつむいていた顔をあげて、「その時までに治します」と、笑顔ではっきりと応えてくれた。君が一番気にしていたであろうことを言ってしまってごめんなさい。空気を読むようにキャプテンが「先生、逆転なんです。接戦を制しました」と昨日の試合の報告に話題を転じてくれた。痛々しいほどの気遣いである。嬉しいね。聴くと下のような結果である。こうした接戦を制することができるのは、この夏に向けていい力をつけてきている証拠だと思う。

頑張れ!市原中央球児たち。

市原中央 210 040 100 

東海望洋 240 001 000 7

先日の吹奏楽部定期演奏会、大勢で駆けつけてくれたこと、感謝します。ありがとう。

グループ ニライカナイから神がくる夜

5月24日(金) ほぼ毎日Vol.36 信頼されることを教えてくれた少年

生徒会役員選挙の立会演説会があった。先駆けて生徒会長の「◯音さま」が部屋に来てくれた。今日校長講話よろしくお願いしますということと、立会演説会に触れるような内容であってほしいというお願いである。『難しいなぁ・・・』と思っていると、察したのか「そうですね、前回の終わりが、『次回は、信頼を教えてくれた少年の話をしよう』でしたものね」ちゃんと聞いていてくれたのですね。案の定、無理やりこじつけの講話になってしまった。

校長講話

南の小さな、小さな島の話である。その島では夏の初めに、ニライカナイから神々を迎える秘儀の祭りがある。島民以外は全て島外に出して行われる、写真撮影はもとより、筆録も許されず、見たことは語ってはならないタブーがある。まさに秘儀である。その祭りに招かれた。長老の家で紹介され許された私は、招いてくれたオジイが案内係に付けてくれた少年に導かれて祭りの場に向かった。真っ直ぐ続く細道の向こうに、こんもりと茂った森がある。神々の宿る杜(もり)であるらしい。太鼓と木を打ち鳴らす音が聞こえ、2柱の神が現れた。赤い顔の神と黒い顔の神。夫婦神である。「ねぇ、あの神様は夫婦なの?」少年に尋ねると、少し考えた少年は「おじさん、おじさんはいい人だからね、教えてあげる」と言って「夫婦神であると教えてくれた。赤い顔の神さまが女神で、黒い顔の神が男神。勝手に自分の中に出来上がった基準で少年に語りかけると、「違うよ、おじさんはいい人だから教えてあげる。一日中海で釣りをして、日焼けで真っ赤なのが男。かまどの灰を被って真っ黒なおが女の神。」興味津々で少年に尋ねるたびに、彼は枕詞のように「おじさんはいい人」を繰り返す。聞いているうちに私は心が浄化されて、どんどんいい人になっていく。人に信頼されることの喜びをこれほど純粋に感じたことはない。信じることも難しいが信じられていることを実感することはさらに難しいかもしれない。「信」という万有引力のような人の繋がり。大切にしてほしい。立会い演説で、自分たちの学校生活の心臓部を担う労を買って出た仲間との「信」をしっかり確認してほしい。

ところで、話に出た少年は、言葉の前になぜ「おじさんはいい人だから・・・」と必ず言ったのだろう。宿題です考えておいてください。