曇り 「離れている」が見せるもの

7月31日(金) ほぼ毎日・校長 Vol.172 Distanceは何を語りかけるのか

本文と二人の女子生徒は無関係です。お昼休みに人生ゲーム(命名:日髙・将来像確認トーク)に来てくれている二人です。

夏休み前の校長講話

いま口を開くと「新型コロナウイルス」一色である。「人」という文字は、支え合っている姿を表している。「人」は一人では生きていけない。よく言われる話。人は元々「群れ」で生きるようにできている。「村(ムラ)」の語源が「群れ(ムレ)」であるように、共同体、コミュニティが必要な生き物である。
新型コロナウイルスは、その我々に、真逆のDistance(距離、道のり、隔たり)を要求する。「離れろ」と強要してくる。寄り添って、距離を縮めて発揮できる人間の力を奪い取っていく。そんな現状をポジティブに考えたいが、なかなかそうはいかない。しかし今日は考えよう。この事態が我々に見せてくれたもの。Distance(距離、道のり、隔たり)を強いられたこの状態は、本来の人の姿、本来の人間力をしっかりと見つめてさせくれるチャンスと考えてみてはどうか。

人の刻む歴史を記録としての「正史(正しい歴史)」とするなら、正史には現れてこない「離」のもつ力、人が「離(れている」ことを通して、「会う(支え合う)」ことの大切さを認識していた心の動きが、人の心の動きを伝える「外伝」としての文学に現れてくる。

万葉集の有名な歌である。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
紫草の映える標野を行きながら、そんなに袖を振らないでください。(標野の)見張りが見るではないですか。私たちの逢瀬がみんなの知るところとなってしまうではありませんか。
有名な額田王(ぬかたのおおきみ)の歌である。中大兄皇子:大海人皇子の兄との恋愛関係にあった女彼女が、大海人皇子の蒲生野での狩りに一緒に行ったときに、額田王が詠んだ歌。天武、天智の時代を生きた女性の歌である。ここに記される「袖振る」は、離れている者が相手の魂を呼び寄せる行為と言われている。バスで帰る君たちに「さようなら」「(私は)ここにいるよ」ではなく、「あなたの心が欲しい」「会いたい」「一緒にいたい」という気持ち。今はDistance(距離、道のり、隔たり)があるけれど、「会う(逢う)」ことを望んでいるのですよ。どうかあなたの心、私に届け。離れている現実から、本来あって欲しい(あるべき)姿を見る姿勢である。「外伝」には、他にもある。

徒然草『花は盛りに』
「障ることありてまからで。」なども書けるは、「花を見て。」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝かの枝、散りにけり。今は見どころなし。」などは言ふめる。

古人は「なき状態」から「ある状態」の素晴らしさを思う心の動きを大切にした。なかなか感じることができない、持つことができない姿勢のチャンスをコロナは与えてくれた。不自由な、規制のある、ままならない状態から、今まで感じることもなかった「当たり前」とその大切さ、ありがたさに目を向けるチャンスをくれたと考えてもいいのではないか。(ちょっと無理があるかな?)

人には「協働」とか「知恵」とか、幾多の難関を切り抜けてきた素晴らしい力がある。将来の社会の担い手としての君たちの人間力に期待したい。
「なき状態」から「ある状態」を観ることを知った者は、成長するだろう。生まれ変わるだろう。本校の生徒たちには、それができると思っている。そんな思いで君たちを見ると、なんて素晴らしい学校なんだろうと改めて思う。

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